1-3 最初の宿場、品川宿へ2012/10/09 00:55

<目次(リンク)>
 1.真夏の日本橋を出発
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 2.幹線道路にある東京の史跡へ
  http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/09/6597409
 3.最初の宿場、品川宿へ
  http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/09/6597402
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3.最初の宿場、品川宿へ

 高輪大木戸跡、つまり”大木戸”を出た二人は、いよいよ京都三条大橋までの、東海道53次の旅に足を踏み入れた。ここからが本当の東海道。長き旅の始まりである。
【き】「大木戸を出たな、おさべえ。ようやく東海道の旅が始まった、といったところかな。」
【お】「ああそうさ。いままでは、自宅から東京駅へ向かっていたといった感じだろう。ここから、京へ向けて新幹線が出発したといっても過言じゃないだろうね。」
新幹線とは、描写が極めて現代風ではあるが、この時はまだ”歩く”本当の楽しさを二人は知らなかった。

 大木戸を過ぎると、すぐに泉岳寺の交差点に着く。都営浅草線と京急の接続駅のある泉岳寺交差点には、交差点名となった泉岳寺が近くにある。泉岳寺は、赤穂浪士で有名な寺で、これもまた、東海道に面した寺の一つである。
【お】「泉岳寺か。泉岳寺の近くに大木戸跡のような史跡があるとは、今日まで気づかなかったよ。きんのじは知っていたか?」
【き】「ああ、知っていたよ。ただ、今日ほどじっくりと見たことはなかったけどな。」
 おさべえは、普段から泉岳寺付近を通過している。にもかかわらず、大木戸跡の存在には気づいていなかったらしい。おさべえにとって、大木戸跡の史跡は”最初の大きな発見”であった。

 泉岳寺を超えると、いよいよ品川が近づく。このあたり、おさべえにとっては毎日バスや電車で通っている場所であり、何度も歩いている区間である。特に見所はない。
 前方に、品川プリンスホテル、パシフィックホテルなど、品川の高級ホテルの建物が見えてくると、そこは品川駅である。上野や東京、新宿などと同様のターミナル駅であるが、他と比べると地味な存在である。しかし、現在では新幹線も停車する一大ステーションとして発展を遂げている。再開発によって誕生した高層ビル群、その近くには、江戸時代から続く宿場町。新旧が織りなす楽しい町でもある。

 さて、品川駅を横目に、東海道は八つ山へ向かってゆるやかな上り坂となる。左側には京急の高架と掘り割り状になったJRの品川駅構内が続く。八つ山はその名の通り”山”であり、鎌倉時代には”鎌倉街道”が八つ山から続く尾根づたいを通っていた。
【き】「今は電車が走っているけど、江戸時代は本当に山だったんだろうな。」
【お】「きんのじの言うとおりだろう。もともとは山だったところを削って、鉄道や道路が走っているんだろうね。」
【き】「このあたりはよく知っているぞ、八つ山の交差点で左に曲がり、JRを超えて京急の踏切を渡っているのが東海道だろ、おさべえ。」
【き】「正確に言うと、この2車線の道ではなくて、その右側にある細い一本の道だな。」
【お】「そうそう、そして、あの道こそ品川宿だ。」
【き】「今日の目標は達成だな、おさべえ。」
【お】「いいや、あと少し。宿場に入ってこそ、目標達成だよ。」
 八つ山の交差点を左折し、2車線の道を進む。直ぐに京急の踏切があり、道路はまっすぐに坂を下る。しかし、まっすぐに行く道は東海道ではなく、その右側にもう一本細い道がある。そこが東海道の品川宿である。
 このあたり、少々わかりにくいが、この二人にとっては知っている場所であり、迷わずに品川縮へ入ることが出来た。ここから、いわゆる”旧道”が始まるのである。

 さて、宿場についた二人は、ゆっくりとした速度で歩を進める。宿場には、高札場跡や本陣・脇本陣・旅籠などの跡を示す木抗や石碑、説明版などがあるため、見落とさずに進むためである。
【お】「品川の商店街は、何度も来ているし、ここが品川宿であることも知っている。けど、東海道を意識して来てみると、やっぱり違った感じがするな。そう思わないか、きんのじ。」
【き】「そうだな。いままでは意識していなかったけど、こうして意識してみると、江戸時代、多くの人で賑わった宿場のにぎわいが伝わってくるようだよ。」
【お】「そうそう、きんのじなら知っているだろうけど、この品川宿は江戸四宿の一つで、京から江戸に来た旅人にとっては最後の宿場。身支度を整える場所でもあったそうだよ。そのため、旅籠数も多かったらしいよ。」
【き】「高輪の大木戸からそれほど距離がないので、江戸に入る前の身支度を整える宿場、ということか。なるほど。」
【お】「ちなみに、江戸四宿に数えられた、中山道の板橋宿、日光・奥州街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿も、似たような役割だったそうな。」
【き】「ほう、そうか。さそがし賑わっていたのだろうな。」
【お】「この四宿、いまも賑わっているけどね。」
 江戸四宿とは、おさべえが説明しているように、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光・奥州街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿のことを指している。いずれも、江戸の手前に位置し、旅人にとって江戸へ入るための身支度を整える宿場でもあった。
【お】「さてと、そろそろ日も傾いてきたころだし、適当な場所で終えようか。できれば、次回スタートするのにわかりやすいところがいいな。」
おさべえは、適当な目印を探して宿場内を進む。宿場にはいて直ぐ、小さなT字交差点の角に「問答河岸跡」の碑が建っていた。
【お】「よし、ここで終えよう。そろそろ空も怪しげだし。」
おさべえは、この場を今回の終了地点、つまり、次回のスタート地点とし、初日の旅を終えた。

 ちなみに、「問答河岸跡」とは、かつて海岸先に波止場があり、3代将軍徳川家光が東海寺に入るときに、沢庵和尚が迎え出て問答をした場所を指している。

 余談だが、京急の踏切を直進する2車線道路は、江戸時代には海であった。品川宿は、海岸線に沿って展開されており、風光明媚な場所でもあったそうだ。現状からはとても想像の出来ない景色である(安藤広重の絵を見ると、確かに左側に海が描かれている)。


旅は、第2章へ続くのである・・・。

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