2-1 品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ2012/10/13 13:02

第二章 第一京浜を西へ、多摩川を越え川崎宿へ

<登場人物>
 旅人「き」:きんのじ
 旅人「お」:おさべえ

----------------------------------------------------------------------
<目次(リンク)>
 1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
  http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601282
 2.退屈な国道歩き
  http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601281
 3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
  http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601278
----------------------------------------------------------------------


1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ

 朝から、真夏の日差しが注ぐ8月。はじめて、”街道”を意識して歩いた前回から過ぎ去ること1週間。二人の旅人は、再び東海道の上に立っていた。二人がいるところは、前回の終了地点とした、品川宿の「問答河岸跡」前。
 前回は、日本橋~品川宿の約2里(1里=約4Kmとした場合、約8Km)の旅であったが、今回目指すところは川崎宿。距離は2里半(約9.8Km)で、前回よりも多少長い距離である。
【お】「さてと、出発しますかね、きんのじ。」
【き】「今回は宿場からか。なかなかいいもんだな。それにしても、今日も暑い。」
【お】「今日は、雲一つない快晴なので、歩くのも大変だな。」
炎天下のアスファルト道。よっぽど物好きでなければ歩かないような夏の昼下がり。暑さ対策をして、まずは品川宿散策から二人の旅は始まった。
【お】「なあ、きんのじ。品川宿っていえば、北品川宿と南品川宿に分かれていたらしいぞ。知っているか?」
【き】「ああ、確か、目黒川を境に分かれていたという話だろう。」
【お】「そうそう。その名残で、今も川を境に北品川本通り商店街と南品川商店街に分かれているそうじゃないか。」
【き】「それだけじゃないぞ、おさべえ。信仰している神社も違っていて、北品川の鎮守は品川神社、南品川の鎮守は荏原神社になっているんだよ。」
【お】「へえ~。そりゃおもしろいな。」
【き】「6月には、天王祭と呼ばれる盛大な祭りがあるぞ。双方の神社の祭りを一緒に行うので、そりゃ、盛大だろうな。」
【お】「へえ~、想像するだけでも盛大だな。きんのじは見たことあるのか?」
【き】「残念ながら、見たことはないなー。」
【お】「うーんそうか、あと2ヶ月早ければ、その祭りに出くわしたかもしれないな。」
 品川宿は、目黒川に掛かる「品川橋」を境に、日本橋側が北品川宿、京側が南品川宿となっていた。現在も、この橋を境に「北品川本通り商店街」と「南品川商店街」に分かれており、旅人二人が言っているように、6月の天王祭は盛大なものである。

 さて、旅人二人は「問答河岸跡」を後にして、品川宿(北品川宿)をゆっくりと歩いている。事前知識としておさべえは、宿場内には史跡が比較的多くあることを学んでいた。宿場には、本陣(身分の高い人が宿泊する宿)、脇本陣(通常は旅籠として、本陣がさばききれなくなった場合には、本陣のかわりとして使用する宿)、旅籠(一般の旅人が宿泊する宿)、問屋場(馬の手配や次の宿場までの荷物の受け継ぎなどを行う施設)など、多くの施設がある。
 また、神社仏閣も多く、街道を歩く現代人にとっては、当時の文化を知ることが出来る、史跡の固まりのような場所である。
 つまり、こうした史跡を見逃さないように、注意して歩いているために、ゆっくりとした歩きになるのである。これが、街道歩きの醍醐味であることを、旅人は後で知ることになる。

 ここで余談だが、街道に関連した史跡には、一里塚や高札場、そして、今も残る旧家など、見所はたくさんある。その一部を下記のサイトで紹介してるので、参考にしていただければと思う。

 ■旅のしおり
  http://www.asahi-net.or.jp/~yx6o-ontk/tokaido53/tokaido_guide.htm

 また、品川宿の天王祭について紹介されているページがあるので、こちらも参考までに紹介する。

 ■品川宿 天王祭
  http://www.sinakan.jp/htmb/tenno/index.html

 旅に戻ろう。なりきり弥次喜多の二人、きんのじとおさべえは、歩き始めて直ぐに「土蔵相模跡」を見つけた。コンビニの前にひっそりと説明版が立っている。さらに、その先では「海岸石垣の名残」と書かれた説明版を見つけた。おさべえは、この日のためにはじめて購入した、デジカメ(デジタルカメラ)で史跡を撮影する。
【お】「なあ、きんのじ。この土蔵相撲跡って何のことなんだ?」
【き】「説明版に書いてあるぞ。なになに、ここには相模屋という旅籠があり、壁がなまこ壁だったために、土蔵相撲と呼ばれていたか。なるほど。」
【お】「つまり、壁のことか。」
【き】「まあ、そういうことになるな。それにしても、かつての旅籠も今はコンビニとマンションか。時代はかわるもんだなぁ。」
【お】「なんだきんのじ、まるで当時から生きているようじゃないか。」
【き】「江戸時代の町並みを想像しながら見ると、まあ、こんな気持ちになるってわけさ。」
 ちなみに、高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行したと言われている。

 少し歩くと、今度は「海岸石垣の名残」と書かれた説明版のある小さな公園があった。
【お】「ん、海岸石垣の名残。目の前には公園があるだけだぞ。」
【き】「おさべえ、もっと想像をふくらませよう。いいかい、目の前の公園には段差があるだろう。そして、品川宿は海に面した宿場だった。これから連想するのは船着き場。そう、ここは船着き場があった、ということになるんじゃないか。」
【き】「おお、さすがはきんのじ。つまり、この公園は船着き場の跡、というわけか。すると、あの段差の先が海だった、ということになるな。」
 目の前の公園を見て想像を働かせる二人。さて、説明版をよく見てみると『江戸時代の東海道は、品川に入って海岸の方へ行く横町は下り坂になっていて、昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。』と書いてある。船着き場とは少々違うが、海から宿場を守るための護岸だったようだ。

 さて、それぞれの想像力を働かせながら、品川宿の散策を続ける二人は、やがて宿場の中心部ともいうべき、本陣跡に達する。”本陣”という言葉、二人にとってははじめて聞くものであった。
【き】「本陣跡?なあ、おさべえ。本陣とは何だ?戦でいう”陣”とは違うようだが。」
【お】「それなら、ちゃんと事前に調べているよ。本陣とは、大名などのえらーい人が泊まる宿のことをいうそうだ。もちろん、一般人の泊まる旅籠とは比べものにならないくらい豪勢で広い。まあ、今でいう高級ホテルといったところだろうね。」
【き】「なるほど。ということは、ここにその本陣があったということか。確かに、この公園の奥は広いな。」
 二人は公園に足を踏み入れた。入口付近は狭くなっているが、奥へ行くと広場になっている。当時はもっと広かったものと思われるが、それでも、この界隈にとっては比較的広い公園である。
【お】「本陣跡というけど、単なる広場で何もないな。いったい、本陣とはどのような建物だったのだろう。」

 想像をふくらませながら、旅人は先を急いだ。本陣跡の先で山手通りを横切ると、やがて橋にたどりつく。この橋が、目黒川にかかる「品川橋」で、北品川宿と南品川宿の境になっていた。橋を渡る手前の右側には、荏原神社があり、南品川の鎮守となっている。
 目黒川を渡ると、一旦人通りも商店もまばらとなるが、すぐに再び活気のある商店街になる。青物横丁の商店街である。近くには京浜急行青物横丁の駅があり、この界隈でもひときわ賑わいを見せている。
 品川宿は、北品川(京浜急行北品川駅近く)からはじまり、とにかく横に長い宿場である。本陣跡のあるあたりが宿場の中心であったが、その先にも宿場は横に長く続いている。
 青物横丁の商店街を過ぎると、次は鮫洲の商店街、そして、立会川の商店街へと続く。とにかく、昔も今も活気があるのが、品川宿なのである。

 さて、旅人は今、小さな川に掛かる小さな橋の前に立っていた。この川は「立会川」といい、橋は「浜川橋」と呼ばれている。この浜川橋、別名「涙橋」とも呼ばれている。なぜに「涙橋」なのか? 旅人の会話を聞いてみよう。
【き】「おさべえ。橋があるぞ。なんという橋だ。」
おさべえはガイドブックをめくる。
【お】「浜川橋。別名涙橋とうそうだよ。」
【き】「涙橋?」
【お】「そう、その昔、鈴ヶ森刑場に引かれる罪人が、ここで家族と涙の別れをしたという言い伝えがあり、そう呼ばれているらしい。」
【き】「なるほど。同じことがこの説明版にも書いてあるぞ。」
【お】「なに、説明版があったのか。」
橋の近くには説明版があり、浜川橋、通称「涙橋」の由来が書かれている。
【き】「それにしても、切ない名前の橋だな。」
【お】「ん、なんでそう思うんだ、きんのじ。」
【き】「罪人との別れの橋。旅人との別れの橋ではないのだろう。つまり、ここでの別れは今生の別れ。二度と再会することがないのだからな。」
【お】「なるほど。確かにそうだな。旅人ならいつか再会できるが、罪人。しかも、これから処刑されるとなれば、最後のお別れ、ということになるな。」
【き】「そう考えると、この小さな橋の対岸が遠くに見えるよ。」
【お】「まさに、三途の川といった感じだね。」
【き】「それをいうなら、鮫洲の川、なんてな。」
【お】「きんのじ、あまりおもしろくないぞ、その洒落。」
涙橋。悲しい由来のある橋だが、今は小さな橋である。ちなみに、橋の下を流れる立会川は、上流が暗渠になっており、JR大井町駅近くから地上に現れる、いわゆる開渠となっている。かなり前の話だが、ボラが大発生したことでも有名である。

 さて、浜川橋を渡った旅人は、いよいよ品川宿を出て、一路鈴ヶ森刑場跡をめざす。しばらく続いていた商店街も終わり、街道の両側には民家が建ち並ぶ。やがて、街道の右側に八つ山で分かれた国道15号線がよってくると、国道15号線と東海道の間の小さな区画に史跡が現れた。
【お】「ん、史跡があるぞ、きんのじ。」
【き】「鈴ヶ森刑場跡と書いてあるな。」
【お】「ここが鈴ヶ森刑場跡か。あの涙橋で家族と涙のわかれをした罪人は、ここで処刑されたということか。でも、なんで街道沿いにあるんだ。きんのじ。」
【き】「うーん。見せしめのためじゃないのか。」
 江戸時代、罪人に対する制裁は今よりも厳しかった。特に盗みは大罪であったといわれる。きんのじの言うように、処刑場が街道に沿ってあるのは、みせしめのためであったといわれている。

 東海道(旧道)は、この先で国道15号線に合流し、第一京浜となって川崎を目指す。しばし旧道から国道歩きとなる旅人であった。


--2章2節へ続く--

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック