2-3 久しぶりの旧道は六郷の渡しへ ― 2012/10/13 13:00
<目次(リンク)>
1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601282
2.退屈な国道歩き
http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601281
3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601278
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3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
暑さと疲れのためか、すっかり口数の少なくなった旅人二人。すでに、思考ではなく本能で足を動かしているような状態に近くなっていた。そんな二人の前に、久しぶりに旧道の姿が見えてきた。それは、おさりんが事前にインターネットで調べていた光景であった。
【お】「ん、あれは?」
【き】「どうした、おさべえ。」
【お】「きんのじ、この先に、歩道の真ん中に木が見える場所があるの、わかるか。」
【き】「あ、ん、ああ、あれか。なんで歩道の真ん中に街路樹が並んでいるんだ。」
【お】「あれが旧道だよ。インターネットで調べたんだけど、旧道への分岐が歩道の延長のような形になっている、なんとも不思議な分岐があると。」
【き】「それがあの木のあるところというわけか。」
【お】「そうさ。左側が旧東海道、右側は歩道というわけだよ。」
事前に調べていた分岐にたどりついたことで、おさべえに、ようやく「思考」が戻ってきた。旧道分岐へ向かい、少し足の運びが軽やかになったのか、ほどなくして旧道分岐へたどりついた。
【お】「きんのじ。この旧道を進めば、いよいよ六郷の橋だよ。川崎は目の前だ。」
【き】「ほう、この道がね・・・。ということは、江戸時代にはこの先に渡しがあったということか。」
【お】「そうだね。さあ、いよいよ多摩川だ。先を急ごう。」
先ほどよりいくぶん元気になったおさべえは、きんのじを従える形となり、旧道を進んだ。旧道といっても、よくある一般的な道になっているが、長く国道を歩いてきた二人にとっては新鮮であった。
やがて旧道は終わり、国道に合流すると、そこは六郷の橋のたもとであった。目の前は多摩川で、いよいよ都内を出て神奈川県に入る。
江戸時代、六郷には当然橋はなく、船で旅人を渡していた。いわゆる「六郷の渡し」である。現在は、国道15号に橋が架かっているため、難なく越えられるが、当時は難所の一つであったことが想像できる。
さて、きんのじとおさべえの二人は、いよいよ多摩川を渡り、川崎市へ入る。品川宿についで二つめの宿場、川崎宿まであとわずかである。
【お】「きんのじ、いよいよ多摩川だ。対岸が川崎市か・・・。宿場までもう少しだな。」
【き】「河口から上ってくる風がさわやかだな。」
【お】「そういえば、これだけの大きな川だと、確かに風が吹いていて、気持ちがいいな。」
【き】「それにしても、多摩川を徒歩で渡るとわね・・・。はじめての経験だよ。」
【お】「はっはっは、きんのじの言うとおり。いつもは右側を走っている電車であっさりと渡ってしまうからな。こうして、徒歩でゆっくり渡るのは初めてだ。」
河口から上ってくる風を受け、ようやく涼を感じる二人は、多摩川という、今回の旅で初めて目にする大河の景色に満足しながら、川崎宿を目指す。やがて渡り終えた二人は、橋の横に案内板とモニュメントがあることに気づいた。それは、六郷の渡しに関する説明版であった。
【お】「いやー、渡り終えたな、きんのじ。」
【き】「神奈川県か。歩いて神奈川県に来たのは初めてだな。こうしてみると、多摩川は大きい川だなぁ。」
【お】「ん、なんだこれ。」
【き】「どうした、おさべえ。」
【お】「なんか案内板があるぞ。六郷の渡しのことが書かれている。」
【き】「ほう、どれどれ。本当だ。」
【お】「説明によると、六郷の渡しは、ここよりもう少し下流側にあったらしい。」
【き】「江戸時代は船か。そうだろうな。これだけの川を越えるのには、船じゃなければ厳しかったのだろう。」
【お】「それもそうだけど、河口近くなので深さもあり、橋を架けることもできなかったんじゃないかな。」
【き】「まあ、おさべえの言う通りだろうね。」
【お】「同じく江戸から京都を結ぶ中山道と比べると、東海道は川が多い。特に、多摩川をはじめ、相模川、酒匂川、安部川、富士川、大井川、天竜川など、大河と呼ばれる大きな川を越えなければならないから、当時は大変だったんだろうな。」
【き】「多摩川は、江戸を出発して最初に越える大河か。」
六郷の渡しに関する説明を一通り読んだ二人は、再び川崎宿を目指して歩を進めた。東海道は、多摩川を渡りきるとすぐに右へ分岐する。六郷の旧道を歩いた場合、一旦国道を右から左へ越える必要がある。橋のたもとで国道は陸橋となり右方向へ分岐する道を越えている。この右方向へ分岐する道こそが、川崎宿を通る東海道でり、川崎宿の入り口となる。二人は、迷うことなく右へ分岐する道へ歩を進めた。すると、すぐに「川崎宿」の文字が現れた。
【お】「あれ、もう川崎宿。」
【き】「そのようだな、おさべえ。渡しを控えているので、川の近くに宿場があったのだろう。」
【き】「なるほど、きんのじの言うとおりかもしれない。ということは、着いたわけか、川崎宿に。とりあえず、終了地点にふさわしい場所まで行こう。」
川崎宿に入ると、高札場や本陣、脇本陣を表す標柱が立てられている。退屈だった国道歩きから一変して、記録を残しながら歩く二人にとっては忙しい道となった。
旧東海道ルートは、川崎駅前の繁華街になっているようで、先へ進むにつれて賑やかになってきた。様々な店が建ち並び、人通りも多くなってきたころ、「田中本陣跡」の標柱が現れた。
【お】「おお、本陣跡だ。ここが川崎宿の中心だったとこだよ。」
【き】「ちなみに、本陣は大名が宿泊する宿、というわけだよな、おさべえ。」
【お】「その通り。」
【き】「この先の交差点を右に行くと、川崎駅に出られる。ここで終えるかい?おさべえ。」
【お】「次回、続けやすいので、ここで終えようか。」
真夏の東海道。品川宿からスタートした今回の旅は、退屈な国道歩き、そして多摩川を越えて川崎宿にたどりついたところで終わった。夏とはいえ、日が傾いてくると、いくぶん涼しくなる。旅人は、次回のスタート地点となる「田中本陣跡」を後にして、川崎駅へ向かった。
余談だが、帰りに乗った東海道線は、二人が苦労して歩いてきた距離を、20分もかからずに通り過ぎてしまった。ややむなしさの残る二人だったが、既に気持ちは次回へ向いていた。
旅は、第3章へ続くのである・・・。
1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
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2.退屈な国道歩き
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3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
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3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
暑さと疲れのためか、すっかり口数の少なくなった旅人二人。すでに、思考ではなく本能で足を動かしているような状態に近くなっていた。そんな二人の前に、久しぶりに旧道の姿が見えてきた。それは、おさりんが事前にインターネットで調べていた光景であった。
【お】「ん、あれは?」
【き】「どうした、おさべえ。」
【お】「きんのじ、この先に、歩道の真ん中に木が見える場所があるの、わかるか。」
【き】「あ、ん、ああ、あれか。なんで歩道の真ん中に街路樹が並んでいるんだ。」
【お】「あれが旧道だよ。インターネットで調べたんだけど、旧道への分岐が歩道の延長のような形になっている、なんとも不思議な分岐があると。」
【き】「それがあの木のあるところというわけか。」
【お】「そうさ。左側が旧東海道、右側は歩道というわけだよ。」
事前に調べていた分岐にたどりついたことで、おさべえに、ようやく「思考」が戻ってきた。旧道分岐へ向かい、少し足の運びが軽やかになったのか、ほどなくして旧道分岐へたどりついた。
【お】「きんのじ。この旧道を進めば、いよいよ六郷の橋だよ。川崎は目の前だ。」
【き】「ほう、この道がね・・・。ということは、江戸時代にはこの先に渡しがあったということか。」
【お】「そうだね。さあ、いよいよ多摩川だ。先を急ごう。」
先ほどよりいくぶん元気になったおさべえは、きんのじを従える形となり、旧道を進んだ。旧道といっても、よくある一般的な道になっているが、長く国道を歩いてきた二人にとっては新鮮であった。
やがて旧道は終わり、国道に合流すると、そこは六郷の橋のたもとであった。目の前は多摩川で、いよいよ都内を出て神奈川県に入る。
江戸時代、六郷には当然橋はなく、船で旅人を渡していた。いわゆる「六郷の渡し」である。現在は、国道15号に橋が架かっているため、難なく越えられるが、当時は難所の一つであったことが想像できる。
さて、きんのじとおさべえの二人は、いよいよ多摩川を渡り、川崎市へ入る。品川宿についで二つめの宿場、川崎宿まであとわずかである。
【お】「きんのじ、いよいよ多摩川だ。対岸が川崎市か・・・。宿場までもう少しだな。」
【き】「河口から上ってくる風がさわやかだな。」
【お】「そういえば、これだけの大きな川だと、確かに風が吹いていて、気持ちがいいな。」
【き】「それにしても、多摩川を徒歩で渡るとわね・・・。はじめての経験だよ。」
【お】「はっはっは、きんのじの言うとおり。いつもは右側を走っている電車であっさりと渡ってしまうからな。こうして、徒歩でゆっくり渡るのは初めてだ。」
河口から上ってくる風を受け、ようやく涼を感じる二人は、多摩川という、今回の旅で初めて目にする大河の景色に満足しながら、川崎宿を目指す。やがて渡り終えた二人は、橋の横に案内板とモニュメントがあることに気づいた。それは、六郷の渡しに関する説明版であった。
【お】「いやー、渡り終えたな、きんのじ。」
【き】「神奈川県か。歩いて神奈川県に来たのは初めてだな。こうしてみると、多摩川は大きい川だなぁ。」
【お】「ん、なんだこれ。」
【き】「どうした、おさべえ。」
【お】「なんか案内板があるぞ。六郷の渡しのことが書かれている。」
【き】「ほう、どれどれ。本当だ。」
【お】「説明によると、六郷の渡しは、ここよりもう少し下流側にあったらしい。」
【き】「江戸時代は船か。そうだろうな。これだけの川を越えるのには、船じゃなければ厳しかったのだろう。」
【お】「それもそうだけど、河口近くなので深さもあり、橋を架けることもできなかったんじゃないかな。」
【き】「まあ、おさべえの言う通りだろうね。」
【お】「同じく江戸から京都を結ぶ中山道と比べると、東海道は川が多い。特に、多摩川をはじめ、相模川、酒匂川、安部川、富士川、大井川、天竜川など、大河と呼ばれる大きな川を越えなければならないから、当時は大変だったんだろうな。」
【き】「多摩川は、江戸を出発して最初に越える大河か。」
六郷の渡しに関する説明を一通り読んだ二人は、再び川崎宿を目指して歩を進めた。東海道は、多摩川を渡りきるとすぐに右へ分岐する。六郷の旧道を歩いた場合、一旦国道を右から左へ越える必要がある。橋のたもとで国道は陸橋となり右方向へ分岐する道を越えている。この右方向へ分岐する道こそが、川崎宿を通る東海道でり、川崎宿の入り口となる。二人は、迷うことなく右へ分岐する道へ歩を進めた。すると、すぐに「川崎宿」の文字が現れた。
【お】「あれ、もう川崎宿。」
【き】「そのようだな、おさべえ。渡しを控えているので、川の近くに宿場があったのだろう。」
【き】「なるほど、きんのじの言うとおりかもしれない。ということは、着いたわけか、川崎宿に。とりあえず、終了地点にふさわしい場所まで行こう。」
川崎宿に入ると、高札場や本陣、脇本陣を表す標柱が立てられている。退屈だった国道歩きから一変して、記録を残しながら歩く二人にとっては忙しい道となった。
旧東海道ルートは、川崎駅前の繁華街になっているようで、先へ進むにつれて賑やかになってきた。様々な店が建ち並び、人通りも多くなってきたころ、「田中本陣跡」の標柱が現れた。
【お】「おお、本陣跡だ。ここが川崎宿の中心だったとこだよ。」
【き】「ちなみに、本陣は大名が宿泊する宿、というわけだよな、おさべえ。」
【お】「その通り。」
【き】「この先の交差点を右に行くと、川崎駅に出られる。ここで終えるかい?おさべえ。」
【お】「次回、続けやすいので、ここで終えようか。」
真夏の東海道。品川宿からスタートした今回の旅は、退屈な国道歩き、そして多摩川を越えて川崎宿にたどりついたところで終わった。夏とはいえ、日が傾いてくると、いくぶん涼しくなる。旅人は、次回のスタート地点となる「田中本陣跡」を後にして、川崎駅へ向かった。
余談だが、帰りに乗った東海道線は、二人が苦労して歩いてきた距離を、20分もかからずに通り過ぎてしまった。ややむなしさの残る二人だったが、既に気持ちは次回へ向いていた。
旅は、第3章へ続くのである・・・。
2-2 退屈な国道歩き ― 2012/10/13 13:01
<目次(リンク)>
1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
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2.退屈な国道歩き
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3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
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2.退屈な国道歩き
夏の日差しが容赦なく照りつける東海道。アスファルトの道は、照り返しの熱を放出し、太陽の熱と共に旅人を苦しめる。水分を補給しながら鈴ヶ森まで歩んできた旅人にとって、これからが正念場であった。
鈴ヶ森で国道15号線に合流した東海道は、わずかに残る旧道を除けば、川崎宿の手前、六郷の橋(多摩川)まで、基本的に国道15号線となる。旅人にとっては、暑くて退屈な、長い国道歩きの始まりであった。
国道へ合流後、交通量の多い国道を太陽に向かって歩く。向かって右側には京急の高架が続く。大森海岸駅を過ぎ、平和島近くで左側に斜めに分岐する道がある。「東海道」とかかれた石碑が出迎えていることからも、大田区に残る数少ない旧道の一つのようだ。
【お】「なぁきんのじ。東海道と書いてある。ここが旧道というわけだな。」
【き】「そうようで・・・。三原通りと書いてあるし、商店街になっているなぁ。東海道と書かれた石碑がなければ、この道が東海道ということがわからないな。」
【お】「かつての街道も、今はどこにでもある道、というわけか。」
国道15号から分岐した旧道(旧東海道)は、それほど距離はなく、しばらく歩くと交差点の一角に出て終わってしまった。そこから先は、再び炎天下の国道歩きとなる。
【お】「しっかし、さすがに第一京浜。交通量多いな。しかも暑いときてるよ。」
【き】「まあ、そうぼやくなって、おさべえ。とは言ったものの、確かにぼやきたくなるなぁ。」
【お】「みてみな、きんのじ。陽炎だよ。いったいどこまで続いているのだか、この道は。」
【き】「そりゃ、川崎だろう。ちなみに、国道15号は横浜駅の手前で国道1号に合流するから、そこまでだろうね。」
【お】「はっはっは、わかっているけど、つい言いたくなるのさ。」
【き】「まあ、確かに暑い。よりによって快晴だもんな・・・。」
つまらない国道歩きは続く。途中、休憩と暑さを避けるために、何度かコンビニへ寄った。国道歩きで唯一救われるとすれば、それは幹線道路だけにコンビニは必ずあるということだろう。
しばらくすると、京急の線路が地上に降りてきて、やや大きめの駅に着く。人通りも多くなると、そこが京急蒲田である。京急蒲田は、横浜方面の「本線」と、羽田空港へ向かう路線が分岐する駅である。そして、たびたび箱根駅伝でどらまを展開している、あの踏切のある駅である。
【お】「お、そろそろ蒲田のようだな。右側に京急蒲田の駅があるぞ、きんのじ。」
【き】「ここが、箱根駅伝でよく写る踏切のある駅か。」
【お】「箱根駅伝、なるほど。確かにこの辺りは復路でよく写る。」
【き】「おさべえ、あれが踏切だろう。」
きんのじは先の方を指さした。ちょうどその時、電車が道路を横切っていた。第一京浜という幹線道路を踏切で横断する、京急ならではの光景かもしれない。ただ、この踏切のおかげで、道路は混雑していた。
余談だが、現在は立体交差化工事が進行中であり、やがてこの踏切は消えて無くなるものである。この小説は2001年に筆者が蒲田付近を歩いた情報を元に作成しているため、踏切の話題が出てくる。
踏切は越えたものの、先はまだ長く、夏の暑さも手伝って、旅人に疲労の色が見え始めてきた。国道沿いには、目立った緑もなく、ただひたすら多摩川を目指して歩くしかなかった。やがて、おさべえが車道を挟んだ対岸に公園らしきものを見つけた
【お】「なぁ、きんのじ。向こう側にあるの、公園じゃないか。」
【き】「ん、ああ、そうだな。公園っぽいな。」
【お】「ちょっと休んで行かないか。こう暑くてはたまらん。」
【き】「そうだな、少し休憩しよう。暑い中を歩き続けるのもよくない。」
二人はとりあえず反対側へ渡り、休息をとることにした。おさべえが見つけた場所は公園であった。といっても、広場があるだけだが、周囲は木陰になっているので、適当な場所で休憩した。歩みを止めると、体中からあせがしみ出てくるような状態になる。
【き】「あとどのくらいあるんだ、おさべえ。」
【お】「えっと、この資料を見る限りでは、まだ半分近くあるぞ。六郷地区にも入っていない。」
【き】「あれー、ずいぶん歩いたような気がしたんだけどな。」
【お】「見所もなく、ただただ暑い国道歩きだからな、距離感がおかしくなってくるよ。地図を見ても、どこまで進んできたのかわかりにくいし。」
【き】「ひたすら歩くというのは、以外に厳しいもんだなぁ。」
そんな会話もつかの間。休みすぎるのも禁物なのが、真夏の東海道である。二人は、どちらから言うわけでもなかったが、しばし休憩すると、再び歩を進め始めた。
【お】「さあ、きんのじ。とにかく先に進もう。多摩川までたどりつかないと、川崎宿にはつかいからね。」
とおさべえ。きんのじに対して言ってはいるが、自分に言い聞かせているようでもある。
国道15号線を歩く旅人に、夏の日差しが容赦なくそそぐ。疲れも出てきた旅人にとって、過ぎ去る時間が長く感じられた。休憩した公園からどのくらい歩いただろうか。信号機に付いている表示が「六郷」となり、ようやく先が見えてきた。
【き】「きんのじ。ようやく六郷地区に入ったようだよ。」
【お】「ああ、ずいぶんと長かったな。」
【き】「だけど、六郷とはいうものの、多摩川まではあとどのくらいあるんだ。暑いせいもあって、結構疲れてきたなぁ。」
【き】「だいたい、今どの辺りなんだ、おさべえ?」
【お】「うーん、なかなかつかみ所のない道なので、どの辺りか見当をつけるのが難しい。旧道が分岐するとか、寺があるとかすれば、おおよその見当はつくのだけど・・・。」
【き】「まあ、かつての東海道とはいっても今は第一京浜。車の走る幹線道路だからね。特徴を探す方が難しいかもしれない。」
【お】「ごもっとも。それにしても、国道歩きはつまらんなぁ。なんか、もっとおもしろいものがあればいいけど、何もないし、しかも暑い。疲れてきたよ。」
【き】「まあまあ、そう愚痴るなって、おさべえ。一歩一歩前進しているんだからさ。」
暑さのせいも重なってなのか、口数がすっかる少なくなっていたおさべえだが、口を開くと愚痴が出てくるようだ。暑さと幹線道路、特徴のない道がどこまで続くのかわからない、となれば、愚痴が出るのも無理はない。
--2章3節へ続く--
1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
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2.退屈な国道歩き
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3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
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2.退屈な国道歩き
夏の日差しが容赦なく照りつける東海道。アスファルトの道は、照り返しの熱を放出し、太陽の熱と共に旅人を苦しめる。水分を補給しながら鈴ヶ森まで歩んできた旅人にとって、これからが正念場であった。
鈴ヶ森で国道15号線に合流した東海道は、わずかに残る旧道を除けば、川崎宿の手前、六郷の橋(多摩川)まで、基本的に国道15号線となる。旅人にとっては、暑くて退屈な、長い国道歩きの始まりであった。
国道へ合流後、交通量の多い国道を太陽に向かって歩く。向かって右側には京急の高架が続く。大森海岸駅を過ぎ、平和島近くで左側に斜めに分岐する道がある。「東海道」とかかれた石碑が出迎えていることからも、大田区に残る数少ない旧道の一つのようだ。
【お】「なぁきんのじ。東海道と書いてある。ここが旧道というわけだな。」
【き】「そうようで・・・。三原通りと書いてあるし、商店街になっているなぁ。東海道と書かれた石碑がなければ、この道が東海道ということがわからないな。」
【お】「かつての街道も、今はどこにでもある道、というわけか。」
国道15号から分岐した旧道(旧東海道)は、それほど距離はなく、しばらく歩くと交差点の一角に出て終わってしまった。そこから先は、再び炎天下の国道歩きとなる。
【お】「しっかし、さすがに第一京浜。交通量多いな。しかも暑いときてるよ。」
【き】「まあ、そうぼやくなって、おさべえ。とは言ったものの、確かにぼやきたくなるなぁ。」
【お】「みてみな、きんのじ。陽炎だよ。いったいどこまで続いているのだか、この道は。」
【き】「そりゃ、川崎だろう。ちなみに、国道15号は横浜駅の手前で国道1号に合流するから、そこまでだろうね。」
【お】「はっはっは、わかっているけど、つい言いたくなるのさ。」
【き】「まあ、確かに暑い。よりによって快晴だもんな・・・。」
つまらない国道歩きは続く。途中、休憩と暑さを避けるために、何度かコンビニへ寄った。国道歩きで唯一救われるとすれば、それは幹線道路だけにコンビニは必ずあるということだろう。
しばらくすると、京急の線路が地上に降りてきて、やや大きめの駅に着く。人通りも多くなると、そこが京急蒲田である。京急蒲田は、横浜方面の「本線」と、羽田空港へ向かう路線が分岐する駅である。そして、たびたび箱根駅伝でどらまを展開している、あの踏切のある駅である。
【お】「お、そろそろ蒲田のようだな。右側に京急蒲田の駅があるぞ、きんのじ。」
【き】「ここが、箱根駅伝でよく写る踏切のある駅か。」
【お】「箱根駅伝、なるほど。確かにこの辺りは復路でよく写る。」
【き】「おさべえ、あれが踏切だろう。」
きんのじは先の方を指さした。ちょうどその時、電車が道路を横切っていた。第一京浜という幹線道路を踏切で横断する、京急ならではの光景かもしれない。ただ、この踏切のおかげで、道路は混雑していた。
余談だが、現在は立体交差化工事が進行中であり、やがてこの踏切は消えて無くなるものである。この小説は2001年に筆者が蒲田付近を歩いた情報を元に作成しているため、踏切の話題が出てくる。
踏切は越えたものの、先はまだ長く、夏の暑さも手伝って、旅人に疲労の色が見え始めてきた。国道沿いには、目立った緑もなく、ただひたすら多摩川を目指して歩くしかなかった。やがて、おさべえが車道を挟んだ対岸に公園らしきものを見つけた
【お】「なぁ、きんのじ。向こう側にあるの、公園じゃないか。」
【き】「ん、ああ、そうだな。公園っぽいな。」
【お】「ちょっと休んで行かないか。こう暑くてはたまらん。」
【き】「そうだな、少し休憩しよう。暑い中を歩き続けるのもよくない。」
二人はとりあえず反対側へ渡り、休息をとることにした。おさべえが見つけた場所は公園であった。といっても、広場があるだけだが、周囲は木陰になっているので、適当な場所で休憩した。歩みを止めると、体中からあせがしみ出てくるような状態になる。
【き】「あとどのくらいあるんだ、おさべえ。」
【お】「えっと、この資料を見る限りでは、まだ半分近くあるぞ。六郷地区にも入っていない。」
【き】「あれー、ずいぶん歩いたような気がしたんだけどな。」
【お】「見所もなく、ただただ暑い国道歩きだからな、距離感がおかしくなってくるよ。地図を見ても、どこまで進んできたのかわかりにくいし。」
【き】「ひたすら歩くというのは、以外に厳しいもんだなぁ。」
そんな会話もつかの間。休みすぎるのも禁物なのが、真夏の東海道である。二人は、どちらから言うわけでもなかったが、しばし休憩すると、再び歩を進め始めた。
【お】「さあ、きんのじ。とにかく先に進もう。多摩川までたどりつかないと、川崎宿にはつかいからね。」
とおさべえ。きんのじに対して言ってはいるが、自分に言い聞かせているようでもある。
国道15号線を歩く旅人に、夏の日差しが容赦なくそそぐ。疲れも出てきた旅人にとって、過ぎ去る時間が長く感じられた。休憩した公園からどのくらい歩いただろうか。信号機に付いている表示が「六郷」となり、ようやく先が見えてきた。
【き】「きんのじ。ようやく六郷地区に入ったようだよ。」
【お】「ああ、ずいぶんと長かったな。」
【き】「だけど、六郷とはいうものの、多摩川まではあとどのくらいあるんだ。暑いせいもあって、結構疲れてきたなぁ。」
【き】「だいたい、今どの辺りなんだ、おさべえ?」
【お】「うーん、なかなかつかみ所のない道なので、どの辺りか見当をつけるのが難しい。旧道が分岐するとか、寺があるとかすれば、おおよその見当はつくのだけど・・・。」
【き】「まあ、かつての東海道とはいっても今は第一京浜。車の走る幹線道路だからね。特徴を探す方が難しいかもしれない。」
【お】「ごもっとも。それにしても、国道歩きはつまらんなぁ。なんか、もっとおもしろいものがあればいいけど、何もないし、しかも暑い。疲れてきたよ。」
【き】「まあまあ、そう愚痴るなって、おさべえ。一歩一歩前進しているんだからさ。」
暑さのせいも重なってなのか、口数がすっかる少なくなっていたおさべえだが、口を開くと愚痴が出てくるようだ。暑さと幹線道路、特徴のない道がどこまで続くのかわからない、となれば、愚痴が出るのも無理はない。
--2章3節へ続く--
2-1 品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ ― 2012/10/13 13:02
第二章 第一京浜を西へ、多摩川を越え川崎宿へ
<登場人物>
旅人「き」:きんのじ
旅人「お」:おさべえ
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1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
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2.退屈な国道歩き
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3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
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1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
朝から、真夏の日差しが注ぐ8月。はじめて、”街道”を意識して歩いた前回から過ぎ去ること1週間。二人の旅人は、再び東海道の上に立っていた。二人がいるところは、前回の終了地点とした、品川宿の「問答河岸跡」前。
前回は、日本橋~品川宿の約2里(1里=約4Kmとした場合、約8Km)の旅であったが、今回目指すところは川崎宿。距離は2里半(約9.8Km)で、前回よりも多少長い距離である。
【お】「さてと、出発しますかね、きんのじ。」
【き】「今回は宿場からか。なかなかいいもんだな。それにしても、今日も暑い。」
【お】「今日は、雲一つない快晴なので、歩くのも大変だな。」
炎天下のアスファルト道。よっぽど物好きでなければ歩かないような夏の昼下がり。暑さ対策をして、まずは品川宿散策から二人の旅は始まった。
【お】「なあ、きんのじ。品川宿っていえば、北品川宿と南品川宿に分かれていたらしいぞ。知っているか?」
【き】「ああ、確か、目黒川を境に分かれていたという話だろう。」
【お】「そうそう。その名残で、今も川を境に北品川本通り商店街と南品川商店街に分かれているそうじゃないか。」
【き】「それだけじゃないぞ、おさべえ。信仰している神社も違っていて、北品川の鎮守は品川神社、南品川の鎮守は荏原神社になっているんだよ。」
【お】「へえ~。そりゃおもしろいな。」
【き】「6月には、天王祭と呼ばれる盛大な祭りがあるぞ。双方の神社の祭りを一緒に行うので、そりゃ、盛大だろうな。」
【お】「へえ~、想像するだけでも盛大だな。きんのじは見たことあるのか?」
【き】「残念ながら、見たことはないなー。」
【お】「うーんそうか、あと2ヶ月早ければ、その祭りに出くわしたかもしれないな。」
品川宿は、目黒川に掛かる「品川橋」を境に、日本橋側が北品川宿、京側が南品川宿となっていた。現在も、この橋を境に「北品川本通り商店街」と「南品川商店街」に分かれており、旅人二人が言っているように、6月の天王祭は盛大なものである。
さて、旅人二人は「問答河岸跡」を後にして、品川宿(北品川宿)をゆっくりと歩いている。事前知識としておさべえは、宿場内には史跡が比較的多くあることを学んでいた。宿場には、本陣(身分の高い人が宿泊する宿)、脇本陣(通常は旅籠として、本陣がさばききれなくなった場合には、本陣のかわりとして使用する宿)、旅籠(一般の旅人が宿泊する宿)、問屋場(馬の手配や次の宿場までの荷物の受け継ぎなどを行う施設)など、多くの施設がある。
また、神社仏閣も多く、街道を歩く現代人にとっては、当時の文化を知ることが出来る、史跡の固まりのような場所である。
つまり、こうした史跡を見逃さないように、注意して歩いているために、ゆっくりとした歩きになるのである。これが、街道歩きの醍醐味であることを、旅人は後で知ることになる。
ここで余談だが、街道に関連した史跡には、一里塚や高札場、そして、今も残る旧家など、見所はたくさんある。その一部を下記のサイトで紹介してるので、参考にしていただければと思う。
■旅のしおり
http://www.asahi-net.or.jp/~yx6o-ontk/tokaido53/tokaido_guide.htm
また、品川宿の天王祭について紹介されているページがあるので、こちらも参考までに紹介する。
■品川宿 天王祭
http://www.sinakan.jp/htmb/tenno/index.html
旅に戻ろう。なりきり弥次喜多の二人、きんのじとおさべえは、歩き始めて直ぐに「土蔵相模跡」を見つけた。コンビニの前にひっそりと説明版が立っている。さらに、その先では「海岸石垣の名残」と書かれた説明版を見つけた。おさべえは、この日のためにはじめて購入した、デジカメ(デジタルカメラ)で史跡を撮影する。
【お】「なあ、きんのじ。この土蔵相撲跡って何のことなんだ?」
【き】「説明版に書いてあるぞ。なになに、ここには相模屋という旅籠があり、壁がなまこ壁だったために、土蔵相撲と呼ばれていたか。なるほど。」
【お】「つまり、壁のことか。」
【き】「まあ、そういうことになるな。それにしても、かつての旅籠も今はコンビニとマンションか。時代はかわるもんだなぁ。」
【お】「なんだきんのじ、まるで当時から生きているようじゃないか。」
【き】「江戸時代の町並みを想像しながら見ると、まあ、こんな気持ちになるってわけさ。」
ちなみに、高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行したと言われている。
少し歩くと、今度は「海岸石垣の名残」と書かれた説明版のある小さな公園があった。
【お】「ん、海岸石垣の名残。目の前には公園があるだけだぞ。」
【き】「おさべえ、もっと想像をふくらませよう。いいかい、目の前の公園には段差があるだろう。そして、品川宿は海に面した宿場だった。これから連想するのは船着き場。そう、ここは船着き場があった、ということになるんじゃないか。」
【き】「おお、さすがはきんのじ。つまり、この公園は船着き場の跡、というわけか。すると、あの段差の先が海だった、ということになるな。」
目の前の公園を見て想像を働かせる二人。さて、説明版をよく見てみると『江戸時代の東海道は、品川に入って海岸の方へ行く横町は下り坂になっていて、昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。』と書いてある。船着き場とは少々違うが、海から宿場を守るための護岸だったようだ。
さて、それぞれの想像力を働かせながら、品川宿の散策を続ける二人は、やがて宿場の中心部ともいうべき、本陣跡に達する。”本陣”という言葉、二人にとってははじめて聞くものであった。
【き】「本陣跡?なあ、おさべえ。本陣とは何だ?戦でいう”陣”とは違うようだが。」
【お】「それなら、ちゃんと事前に調べているよ。本陣とは、大名などのえらーい人が泊まる宿のことをいうそうだ。もちろん、一般人の泊まる旅籠とは比べものにならないくらい豪勢で広い。まあ、今でいう高級ホテルといったところだろうね。」
【き】「なるほど。ということは、ここにその本陣があったということか。確かに、この公園の奥は広いな。」
二人は公園に足を踏み入れた。入口付近は狭くなっているが、奥へ行くと広場になっている。当時はもっと広かったものと思われるが、それでも、この界隈にとっては比較的広い公園である。
【お】「本陣跡というけど、単なる広場で何もないな。いったい、本陣とはどのような建物だったのだろう。」
想像をふくらませながら、旅人は先を急いだ。本陣跡の先で山手通りを横切ると、やがて橋にたどりつく。この橋が、目黒川にかかる「品川橋」で、北品川宿と南品川宿の境になっていた。橋を渡る手前の右側には、荏原神社があり、南品川の鎮守となっている。
目黒川を渡ると、一旦人通りも商店もまばらとなるが、すぐに再び活気のある商店街になる。青物横丁の商店街である。近くには京浜急行青物横丁の駅があり、この界隈でもひときわ賑わいを見せている。
品川宿は、北品川(京浜急行北品川駅近く)からはじまり、とにかく横に長い宿場である。本陣跡のあるあたりが宿場の中心であったが、その先にも宿場は横に長く続いている。
青物横丁の商店街を過ぎると、次は鮫洲の商店街、そして、立会川の商店街へと続く。とにかく、昔も今も活気があるのが、品川宿なのである。
さて、旅人は今、小さな川に掛かる小さな橋の前に立っていた。この川は「立会川」といい、橋は「浜川橋」と呼ばれている。この浜川橋、別名「涙橋」とも呼ばれている。なぜに「涙橋」なのか? 旅人の会話を聞いてみよう。
【き】「おさべえ。橋があるぞ。なんという橋だ。」
おさべえはガイドブックをめくる。
【お】「浜川橋。別名涙橋とうそうだよ。」
【き】「涙橋?」
【お】「そう、その昔、鈴ヶ森刑場に引かれる罪人が、ここで家族と涙の別れをしたという言い伝えがあり、そう呼ばれているらしい。」
【き】「なるほど。同じことがこの説明版にも書いてあるぞ。」
【お】「なに、説明版があったのか。」
橋の近くには説明版があり、浜川橋、通称「涙橋」の由来が書かれている。
【き】「それにしても、切ない名前の橋だな。」
【お】「ん、なんでそう思うんだ、きんのじ。」
【き】「罪人との別れの橋。旅人との別れの橋ではないのだろう。つまり、ここでの別れは今生の別れ。二度と再会することがないのだからな。」
【お】「なるほど。確かにそうだな。旅人ならいつか再会できるが、罪人。しかも、これから処刑されるとなれば、最後のお別れ、ということになるな。」
【き】「そう考えると、この小さな橋の対岸が遠くに見えるよ。」
【お】「まさに、三途の川といった感じだね。」
【き】「それをいうなら、鮫洲の川、なんてな。」
【お】「きんのじ、あまりおもしろくないぞ、その洒落。」
涙橋。悲しい由来のある橋だが、今は小さな橋である。ちなみに、橋の下を流れる立会川は、上流が暗渠になっており、JR大井町駅近くから地上に現れる、いわゆる開渠となっている。かなり前の話だが、ボラが大発生したことでも有名である。
さて、浜川橋を渡った旅人は、いよいよ品川宿を出て、一路鈴ヶ森刑場跡をめざす。しばらく続いていた商店街も終わり、街道の両側には民家が建ち並ぶ。やがて、街道の右側に八つ山で分かれた国道15号線がよってくると、国道15号線と東海道の間の小さな区画に史跡が現れた。
【お】「ん、史跡があるぞ、きんのじ。」
【き】「鈴ヶ森刑場跡と書いてあるな。」
【お】「ここが鈴ヶ森刑場跡か。あの涙橋で家族と涙のわかれをした罪人は、ここで処刑されたということか。でも、なんで街道沿いにあるんだ。きんのじ。」
【き】「うーん。見せしめのためじゃないのか。」
江戸時代、罪人に対する制裁は今よりも厳しかった。特に盗みは大罪であったといわれる。きんのじの言うように、処刑場が街道に沿ってあるのは、みせしめのためであったといわれている。
東海道(旧道)は、この先で国道15号線に合流し、第一京浜となって川崎を目指す。しばし旧道から国道歩きとなる旅人であった。
--2章2節へ続く--
<登場人物>
旅人「き」:きんのじ
旅人「お」:おさべえ
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<目次(リンク)>
1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601282
2.退屈な国道歩き
http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601281
3.久しぶりの旧道は六郷の渡しへ
http://o-chan.asablo.jp/blog/2012/10/13/6601278
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1.品川宿を出発、鈴ヶ森刑場跡へ
朝から、真夏の日差しが注ぐ8月。はじめて、”街道”を意識して歩いた前回から過ぎ去ること1週間。二人の旅人は、再び東海道の上に立っていた。二人がいるところは、前回の終了地点とした、品川宿の「問答河岸跡」前。
前回は、日本橋~品川宿の約2里(1里=約4Kmとした場合、約8Km)の旅であったが、今回目指すところは川崎宿。距離は2里半(約9.8Km)で、前回よりも多少長い距離である。
【お】「さてと、出発しますかね、きんのじ。」
【き】「今回は宿場からか。なかなかいいもんだな。それにしても、今日も暑い。」
【お】「今日は、雲一つない快晴なので、歩くのも大変だな。」
炎天下のアスファルト道。よっぽど物好きでなければ歩かないような夏の昼下がり。暑さ対策をして、まずは品川宿散策から二人の旅は始まった。
【お】「なあ、きんのじ。品川宿っていえば、北品川宿と南品川宿に分かれていたらしいぞ。知っているか?」
【き】「ああ、確か、目黒川を境に分かれていたという話だろう。」
【お】「そうそう。その名残で、今も川を境に北品川本通り商店街と南品川商店街に分かれているそうじゃないか。」
【き】「それだけじゃないぞ、おさべえ。信仰している神社も違っていて、北品川の鎮守は品川神社、南品川の鎮守は荏原神社になっているんだよ。」
【お】「へえ~。そりゃおもしろいな。」
【き】「6月には、天王祭と呼ばれる盛大な祭りがあるぞ。双方の神社の祭りを一緒に行うので、そりゃ、盛大だろうな。」
【お】「へえ~、想像するだけでも盛大だな。きんのじは見たことあるのか?」
【き】「残念ながら、見たことはないなー。」
【お】「うーんそうか、あと2ヶ月早ければ、その祭りに出くわしたかもしれないな。」
品川宿は、目黒川に掛かる「品川橋」を境に、日本橋側が北品川宿、京側が南品川宿となっていた。現在も、この橋を境に「北品川本通り商店街」と「南品川商店街」に分かれており、旅人二人が言っているように、6月の天王祭は盛大なものである。
さて、旅人二人は「問答河岸跡」を後にして、品川宿(北品川宿)をゆっくりと歩いている。事前知識としておさべえは、宿場内には史跡が比較的多くあることを学んでいた。宿場には、本陣(身分の高い人が宿泊する宿)、脇本陣(通常は旅籠として、本陣がさばききれなくなった場合には、本陣のかわりとして使用する宿)、旅籠(一般の旅人が宿泊する宿)、問屋場(馬の手配や次の宿場までの荷物の受け継ぎなどを行う施設)など、多くの施設がある。
また、神社仏閣も多く、街道を歩く現代人にとっては、当時の文化を知ることが出来る、史跡の固まりのような場所である。
つまり、こうした史跡を見逃さないように、注意して歩いているために、ゆっくりとした歩きになるのである。これが、街道歩きの醍醐味であることを、旅人は後で知ることになる。
ここで余談だが、街道に関連した史跡には、一里塚や高札場、そして、今も残る旧家など、見所はたくさんある。その一部を下記のサイトで紹介してるので、参考にしていただければと思う。
■旅のしおり
http://www.asahi-net.or.jp/~yx6o-ontk/tokaido53/tokaido_guide.htm
また、品川宿の天王祭について紹介されているページがあるので、こちらも参考までに紹介する。
■品川宿 天王祭
http://www.sinakan.jp/htmb/tenno/index.html
旅に戻ろう。なりきり弥次喜多の二人、きんのじとおさべえは、歩き始めて直ぐに「土蔵相模跡」を見つけた。コンビニの前にひっそりと説明版が立っている。さらに、その先では「海岸石垣の名残」と書かれた説明版を見つけた。おさべえは、この日のためにはじめて購入した、デジカメ(デジタルカメラ)で史跡を撮影する。
【お】「なあ、きんのじ。この土蔵相撲跡って何のことなんだ?」
【き】「説明版に書いてあるぞ。なになに、ここには相模屋という旅籠があり、壁がなまこ壁だったために、土蔵相撲と呼ばれていたか。なるほど。」
【お】「つまり、壁のことか。」
【き】「まあ、そういうことになるな。それにしても、かつての旅籠も今はコンビニとマンションか。時代はかわるもんだなぁ。」
【お】「なんだきんのじ、まるで当時から生きているようじゃないか。」
【き】「江戸時代の町並みを想像しながら見ると、まあ、こんな気持ちになるってわけさ。」
ちなみに、高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行したと言われている。
少し歩くと、今度は「海岸石垣の名残」と書かれた説明版のある小さな公園があった。
【お】「ん、海岸石垣の名残。目の前には公園があるだけだぞ。」
【き】「おさべえ、もっと想像をふくらませよう。いいかい、目の前の公園には段差があるだろう。そして、品川宿は海に面した宿場だった。これから連想するのは船着き場。そう、ここは船着き場があった、ということになるんじゃないか。」
【き】「おお、さすがはきんのじ。つまり、この公園は船着き場の跡、というわけか。すると、あの段差の先が海だった、ということになるな。」
目の前の公園を見て想像を働かせる二人。さて、説明版をよく見てみると『江戸時代の東海道は、品川に入って海岸の方へ行く横町は下り坂になっていて、昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。』と書いてある。船着き場とは少々違うが、海から宿場を守るための護岸だったようだ。
さて、それぞれの想像力を働かせながら、品川宿の散策を続ける二人は、やがて宿場の中心部ともいうべき、本陣跡に達する。”本陣”という言葉、二人にとってははじめて聞くものであった。
【き】「本陣跡?なあ、おさべえ。本陣とは何だ?戦でいう”陣”とは違うようだが。」
【お】「それなら、ちゃんと事前に調べているよ。本陣とは、大名などのえらーい人が泊まる宿のことをいうそうだ。もちろん、一般人の泊まる旅籠とは比べものにならないくらい豪勢で広い。まあ、今でいう高級ホテルといったところだろうね。」
【き】「なるほど。ということは、ここにその本陣があったということか。確かに、この公園の奥は広いな。」
二人は公園に足を踏み入れた。入口付近は狭くなっているが、奥へ行くと広場になっている。当時はもっと広かったものと思われるが、それでも、この界隈にとっては比較的広い公園である。
【お】「本陣跡というけど、単なる広場で何もないな。いったい、本陣とはどのような建物だったのだろう。」
想像をふくらませながら、旅人は先を急いだ。本陣跡の先で山手通りを横切ると、やがて橋にたどりつく。この橋が、目黒川にかかる「品川橋」で、北品川宿と南品川宿の境になっていた。橋を渡る手前の右側には、荏原神社があり、南品川の鎮守となっている。
目黒川を渡ると、一旦人通りも商店もまばらとなるが、すぐに再び活気のある商店街になる。青物横丁の商店街である。近くには京浜急行青物横丁の駅があり、この界隈でもひときわ賑わいを見せている。
品川宿は、北品川(京浜急行北品川駅近く)からはじまり、とにかく横に長い宿場である。本陣跡のあるあたりが宿場の中心であったが、その先にも宿場は横に長く続いている。
青物横丁の商店街を過ぎると、次は鮫洲の商店街、そして、立会川の商店街へと続く。とにかく、昔も今も活気があるのが、品川宿なのである。
さて、旅人は今、小さな川に掛かる小さな橋の前に立っていた。この川は「立会川」といい、橋は「浜川橋」と呼ばれている。この浜川橋、別名「涙橋」とも呼ばれている。なぜに「涙橋」なのか? 旅人の会話を聞いてみよう。
【き】「おさべえ。橋があるぞ。なんという橋だ。」
おさべえはガイドブックをめくる。
【お】「浜川橋。別名涙橋とうそうだよ。」
【き】「涙橋?」
【お】「そう、その昔、鈴ヶ森刑場に引かれる罪人が、ここで家族と涙の別れをしたという言い伝えがあり、そう呼ばれているらしい。」
【き】「なるほど。同じことがこの説明版にも書いてあるぞ。」
【お】「なに、説明版があったのか。」
橋の近くには説明版があり、浜川橋、通称「涙橋」の由来が書かれている。
【き】「それにしても、切ない名前の橋だな。」
【お】「ん、なんでそう思うんだ、きんのじ。」
【き】「罪人との別れの橋。旅人との別れの橋ではないのだろう。つまり、ここでの別れは今生の別れ。二度と再会することがないのだからな。」
【お】「なるほど。確かにそうだな。旅人ならいつか再会できるが、罪人。しかも、これから処刑されるとなれば、最後のお別れ、ということになるな。」
【き】「そう考えると、この小さな橋の対岸が遠くに見えるよ。」
【お】「まさに、三途の川といった感じだね。」
【き】「それをいうなら、鮫洲の川、なんてな。」
【お】「きんのじ、あまりおもしろくないぞ、その洒落。」
涙橋。悲しい由来のある橋だが、今は小さな橋である。ちなみに、橋の下を流れる立会川は、上流が暗渠になっており、JR大井町駅近くから地上に現れる、いわゆる開渠となっている。かなり前の話だが、ボラが大発生したことでも有名である。
さて、浜川橋を渡った旅人は、いよいよ品川宿を出て、一路鈴ヶ森刑場跡をめざす。しばらく続いていた商店街も終わり、街道の両側には民家が建ち並ぶ。やがて、街道の右側に八つ山で分かれた国道15号線がよってくると、国道15号線と東海道の間の小さな区画に史跡が現れた。
【お】「ん、史跡があるぞ、きんのじ。」
【き】「鈴ヶ森刑場跡と書いてあるな。」
【お】「ここが鈴ヶ森刑場跡か。あの涙橋で家族と涙のわかれをした罪人は、ここで処刑されたということか。でも、なんで街道沿いにあるんだ。きんのじ。」
【き】「うーん。見せしめのためじゃないのか。」
江戸時代、罪人に対する制裁は今よりも厳しかった。特に盗みは大罪であったといわれる。きんのじの言うように、処刑場が街道に沿ってあるのは、みせしめのためであったといわれている。
東海道(旧道)は、この先で国道15号線に合流し、第一京浜となって川崎を目指す。しばし旧道から国道歩きとなる旅人であった。
--2章2節へ続く--